おまめPブログ

(年齢的に)大人になったので、考えを表に出す訓練をすべきと思い立ったのがキッカケで始めました。

BEATLESS感想・考察

こんばんわ。

アニメの方のBEATLESSは9月から再スタートをきるとのことで大変楽しみではありますが、自分としましてはアマゾンprimeで何度も見直しつつ長谷先生のツイートに触発されて原作をよみはじめたところ、絶賛ドはまり中です…他のAIに関する書物と並行しながら読み漁っております…

 

本当は各話ごとにまとめて感想を書きたかったのですが、アニメを何度も見直しつつ原作をよむことでアニメ一周目で感じたことの変化や再発見があまりにも多かったので、気が済むまで現時点での感想を書きたく思います。同じBEATLESSが好きな方にとどくとうれしいです。

 

 

 いろいろと感じることはありましたが、この作品にふれて深く考えさせられたのは何といっても「カタチ」、「道具」、「責任」です。

 

このことばは作中に何度も出てきましたが、出てくるたびに視点が広がっていくような感覚でした。

レイシアはアラトと接する際に何度か自分が道具であることを強調していますが、自分は簡単にほぅ…とはなりえませんでした。

ここに「カタチ」が加わることでより複雑になり、いろいろと考えましたがはっきりとした結論が出せていません。エリカがキティーちゃんのマグカップに関して発言する場面などがそれに該当しますが、道具における”用途”よりも”カタチ”が先行して所有者にとって意味がうまれるという点にハッとさせられました。

確かに道具はある事柄に対して用途があることが前提になりますが、同じ”用途”の道具が世の中にある以上別の項目によって付加価値が発生します。(際立って便利だとそれに価値がうまれますが、それに関してはそこまでいくと別カテゴリーになる)ここでの別の項目というのは作中でいうキティーちゃんというキャラクターです。自分はここでのキャラクター≒「カタチ」だとおもっています。この「カタチ」に拘るのは生身の人間特有であるとレイシアが言っていました。またエリカはモノの「カタチ」が人間から意味を見出されるのはモノ故に受け止めきれると発言してましたが、これはモノが抱える意味のキャパシティーを制限するものがなく、各々の人間の経験や思い出によって同じ「カタチ」であっても見出す意味の振れ幅に対応することができるためだと思います。この点を改めて認識しておくと人間とそれ以外の境界線があいまいになったときに区別の後押しができる要素になるのではとおもいます。

 

つぎに「責任」についてです。

アラトはレイシアという「道具」を使用することで、再三行動に伴う責任を負うことを要求されています。ですが、ここで問題なのがアラトという道具の”使用者”が道具の行いの全体像を把握しきれていないという点です。作中のアラト家のまわりをレイシアが変装して動きまわっていたり、裏でファンド経営をして経済活動に介入したりしている点がそれにあたります。「道具」と”使用者”がいる場合、当然のことながらその使用者に責任が降りかかります。包丁を手にした使用者がひとを刺すのに利用した際、責任を問われるのは当然のことながら包丁そのものでもなく包丁の作成者でもなく包丁の使用者です。包丁を手にして、相手に歩み寄り、刺す、といった一連の””自分の目の届く環境での犯行””です。しかしながらアラトとレイシアに関しては状況が違います。アラトが「こうしてほしい」と命令を出す前にアクションを起こしてしまっている(結果的には必要になっている?)点と、命令に対してのアクションがアラトという使用者の””自分の目の届く環境””を完全に逸脱しています。この場合、道具の使用者としての責任はどれほどまでの範疇におよぶのでしょうか。当然、アクセルとブレーキを間違えた、の類いの意図していないアクションとはわけが違います。それゆえ、これから先の未来に我々がAIなるもの(というよりインターネットや外部環境に接続している機器全般)と長く長く付き合っていく際に、必ず直面する問題になると考えます。

これらのことを意識すると、スマホであったりパソコンであったり、すでに普及している道具についての認識も今一度見直すべきであり、よりよい方向性につながるためにはどういった心持ちであるべきか再考すべきであると個人的には感じさせられました。

 

つらつらと書いてしまいましたが、「BEATLESS」はきたるべき未来に対して先行して我々に意識づけを促すばかりではなく、カタチ・道具・責任といった観点からこれまでの道筋を今一度見直させる大変深い作品であると声を大にして言いたく思います。

各話ごとにきづいた点も多くあるので、そちらは別途まとめたいとおもいます。

 

どうぞ「BEATLESS」の素晴らしらにふれた方々に届くことをねがってやみません。